商工会議所の歴史

わが国最初の商工会議所である「東京商法会議所」は明治11年3月に、次いで「大阪商法会議所」が同年8月、 「神戸商法会議所」が同年10月にそれぞれ設立された。 近代日本の歴史とともに歩んできた商工会議所制度も今や2世紀目にはいった。 ここで、商工会議所の歴史について簡単にご紹介します。

地理で見る商工会議所

ヨーロッパ大陸における商工会議所

世界において、商工会議所の歴史は遠く中世期にさかのぼる。ヨーロッパの商工業がまだ近代資本主義の洗礼をうける以前、 フランス、ドイツ、イギリスの諸都市には商人のギルド組織が普及していた。このような中世期経済社会を母体として1599年フランスのマルセイユに設立された商業会議所 “Chambres de Commerce” が今日における商工会議所の最初の形態であるとされている。その後17世紀の後半から18世紀にかけフランスに発達した多くの商工会議所はヨーロッパの他の諸国に大きな刺戟と影響を及ぼし、ナポレオン一世の欧州制覇に従って先づライン河畔の諸国に波及し、ドイツにおいて “Handels und Gewerb-Kammer” となり、オランダにおいて “Kamer van koophandel en Fabrichen” の発達を促した。その他ブルガリア、スペイン、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロバキア、スイスなど欧州大陸諸国における商工会議所制度は、いずれも多かれ少なかれ、フランス制度に範をとったものである。

英・米における商工会議所

一方イギリスおよびアメリカにおいて、商工会議所制度は、ヨーロッパ諸国のそれとは別に、独自の発達を遂げている。イギリスで最古の商業会議所は、1768年ジャージーに設立されたものといわれ、現存する商工会議所の最古のものはグラスゴー商工会議所(1783年設立)である。その後18世紀の後半から19世紀にかけて各地に会議所の設立が続き、ロンドン商業会議所の創立は1881年である。また、アメリカでは1768年にニューヨーク商工会議所の設立がみられるが、アメリカ各地には、きわめて自由な基盤の上に会議所制度が独自の発達をとげている。 このように、西欧における商工会議所の歴史は二つの系統があるということが出来る。一つは仏独系のものであり、他は英米系のものである。仏独系のものは、行政の補助機関的な性格をもつ公法人であって、一定資格の商工業者からその経費として負担金を徴集し、これらの商工業者によって選挙された議員をもって会議所が構成されている。イタリア、オランダ等もこの系統に属する。英米系の商工会議所は、任意団体または非営利法人として加入、脱退自由の会員をもって組織され、その経費は会費によって賄われる。ベルギーの商業会議所もこの系統に属する。

商工会議所の特徴

商工会議所制度は、このような歴史と伝統をもって各国に発達してきたのであるが、その特徴は、第一に、特定の業種や産業に限定されず、また企業の大小を問わず、広く商工業一般を通じた「総合的経済団体」であるところにある。このことは、最近の経済団体の多くが、特定の業種の発展または利益の確保をめざして活動しているのに比し、商工会議所の普遍的かつ公平妥当な活動を可能にする基盤となっているといえる。 第二の特徴は、都市を中心とする一定の地域にある商工業者の結合の上に立つ「地域団体」であることである。このことは、都市が商工業の集中と発達によって興こり、商工業が都市を中心に振興するという歴史的基盤の上に商工会議所が成立っていることを示すものといえる。「地域的総合経済団体」、これが商工会議所の基本的な性格なのである。

歴史で見る商工会議所

江戸時代・明治初期

わが国において、先進諸国の例にならった商工会議所制度が実施されたのは、明治11年の東京商法会議所の設立以来のことである。しかし、これより以前のわが国では、すでに江戸時代に町会所制度なるものがあり、ここに商工会議所の萠芽をみることができる。町会所は、寛政3年(1791年)松平越中守定信によって創始された制度であって、現在の財団法人的な団体であった。寛政の初期、江戸の町々、市政は荒廃し、市民の生活は窮乏の度を加え、果ては米騒動となって混乱の極に達した。これがため幕府は、新たに松平定信をして事態の収拾に当らせたが、これを「寛政の改革」という。ここで庶政万般にわたる刷新が敢行されたが、とくに官治万能を廃して市民の自治に俟つことが考慮され、町会所の創設がなされたのである。この新政策によって江戸の各町の冗費は徹底的に切りつめられ、その余剰金の一部(そのうちの7分(7割))が町会所の事業基金として充当された。この基金は、市中の富豪紳商から選任された市民総代によって管理、運用され、凶作、飢饉、災害の際の救済に備えたほか、困窮者に対する救済資金の貸付けをも併せて実施し、市民の福祉の増進に寄与したのである。 町会所制度は、実に83年の永きにわたり活動を続けたが明治5年に解散し、同年3月改めて自治機関として東京営繕会議所が設けられ、町会所の残余基金はこれに引継がれた。翌年9月、東京営繕会議所は東京会議所と名を改め、養育院の設置、ガス事業の創設経営、共同墓地の設置、商法講習所(後の商科大学)の開設等を行い、また、言論機関として非常な権威を保持し、大きな業績をあげた。しかし、その後しだいに基金の枯渇をみ、他方東京府による公共事業の活発化、民選府議会の実現等を契機として明治10年に解散された。

明治前期

明治維新以来10年を経て、政治、文化等社会万般にわたってめざましい改革発展が進んでいたが、経済界だけは、東京会議所の解散により各業界が個々分立して団結と秩序を失うことになった。このため、近代的な産業や通商貿易の勃興期に当たり、条約の改正その他重要問題が山積していたが、政府は民間経済界の世論を徴し、またその実情を十分把握することができなかった。条約改正に当って伊藤博文等が、条約改正は国民の世論である旨を英国公使パークスに述べたところ、日本には多数の集合協議する仕組がないではないか、個々めいめいの違った申し出は世論ではないと反駁されたという裏話が残っている。このような事もあって、政府は、海外における実情等をみても商工会議所制度の実施が必要であると認め、かっての町会所以来の伝統と諸外国の制度を参考として「商法会議所」の設置を全国的に勧奨するに至った。その結果、渋沢栄一を中心として、益田孝、大倉喜八郎、福地源一郎、五代友厚等の尽力があって、明治11年に東京、大阪、神戸で設立され、その後、横浜、福岡、長崎、熊本、徳島、富山、下関、名古屋、津、岡山、鹿児島、松山等ほとんどの主要な産業都市に相次いで設立がみられ、明治18年には、その数は32にのぼったといわれる。この商法会議所は、おおむね英米系の制度を範として会員組織によるとともに各地方の実情に従って任意に運営されるのを原則とした。いずれにしても、ここに至って商工会議所の基礎は、本格的かつ全国的に確立されたといえる。

明治中期~大正時代

明治中期に入り、わが国経済の発展に伴ない海外の商工会議所との連絡提携の必要が増大し、商工会議所制度の一層の強化が必要とされ、明治23年商工会議所条例の施行をみ商工会議所の性格の根本が確立され、爾来、わが国における商工会議所の発展を軌道にのせることとなった。明治25年9月には、京都において、全国15の会議所がすべて参加して商業会議所連合会を結成した。さらに明治35年には商業会議所法の施行の運びとなるのであるが、これらの措置により、商工会議所制度は、従来の英米系の性格を改めて仏独系の制度へと根本的に転換された。そこでは会員制でなく、いわゆる「当然加入制」、経費負担の「強制徴収制」が採用され、財政的基盤の確立と地域的総合団体としての性格が強調されたのである。 大正末期になると、明治以来めざましい躍進を遂げてきたわが国経済界も次第に沈滞の様相を呈し、大正12年の関東大震災、昭和初期の世界恐慌によっていちじるしい打撃を蒙った。

昭和初期~第二次大戦期

ここにおいて各方面から商業会議所の強力な活動が要望され、会議所の組織をいっそう強化するとともに、名実ともに経済界の指導的役割を可能とするよう、昭和2年、新たに商工会議所法が公布され、翌3年から施行された。その内容は、初めて会議所に部会、委員会等を設置してその組織内容を強化し、真に総合的な団体としての体制を整備するとともに、全国組織として「日本商工会議所」を法定して、中央組織を設けたところに基本的な特徴を有している。また、旧法では企業の役員等も議員の選挙権、被選挙権を有していたのを廃止して企業単位に改め、個人企業と法人企業をもって会議所組織の柱としたことも大きな改正点であった。かくして商工会議所に対する社会の認識も一段と深まり、維持運営に対する政府の保護助成策も強化されて、まさに空前の盛況時代が現出し、内外の諸問題についてめざましい活動が行われた。 しかし、第二次大戦の開戦とともに、わが国経済が徹底的な戦時統制に進むにつれ、商工会議所も統制経済の円滑な運営に協力することを余儀なくされ、昭和18年に商工経済会法が施行せられ、商工業者の自治機関から、行政機構の下部機構的な制度に変質し、全国における144の商工会議所は47(各都道府県単位)の商工経済会に再編成されたのである。

第二次大戦後~現在

第二次大戦の終結に伴う戦時体制の解除とともに商工経済会法は廃止され、ふたたび商工会議所制度が復活されることとなった。復活に際しては、戦前のような特別法に基づく制度として実施されるよう強い要望もあったが、占領軍当局の容れるところとならず、英米式にまったく任意な制度として実施されるよう指示されたのである。政府は商工会議所が健全な民間機関として発達することを念願し、組織運営の基準等を示して育成を図ったが、その結果、昭和22年末には、民法に基づく社団法人として設立認可されたものだけで242会議所に達し、このほか任意団体として組織されたものも数多く存在した。この中には、組織の基礎が脆弱で商工会議所としての実態を有しないもの、または特定の者の利益を図ったり、政争の具に供されて商工会議所本来の目的を逸脱するもの等も現われ、商工会議所制度の発展の障害となるおそれも感じられた。そこで昭和25年新たに商工会議所法が施行され、商工会議所の組織の基準と活動の原則を示して規制を行うこととなり、既存の各商工会議所に対し再検討が行われ、301の会議所が新商工会議所として再出発を行ったが、この法律の内容は、きわめて簡単な準則を示す態のものに過ぎず、商工会議所自体は依然として社団法人としての取扱いを受けるに過ぎなかった。 商工会議所制度は、周知のとおり、国際的な歴史と伝統をもつ制度であり、世界各地の主要な都市にはほとんど商工会議所が存在している。したがって、その事業も世界的なつながりの下に実施されるべきであり、わが国の商工会議所も諸外国のそれに比して遜色のあるものであってはならないのである。従って国内的にその活動の基礎を固めるとともに、国際的視野からも健全化と強化を図ることにより声望を高めることが要請されるのである。 昭和25年の商工会議所法は、わが国商工会議所制度の基本的諸問題を解決するには、いまだほど遠かったため、昭和28年に至り現行の商工会議所法が制定、施行され、商工会議所制度は、本格的な戦後の歩みを開始することとなったのである。

商工会議所の特色

地域総合経済団体

現行法の第1の特色は、先に述べたとおり、商工会議所が発生的に地域団体であることである。現行法も「商工会議所は、その地区内における商工業の総合的な改善発達を図る」ことを目的として、地域団体であることを明定してあり、その存立の基盤を原則として「市の区域」を基礎として活動し、その地区内において複数の商工会議所が併立することが認められないことである。

公益性・不偏性

第2の特色として、「公益性」「不偏性」が挙げられる。「商工会議所は、商工業の改善発達を図る」とともに「兼ねて社会一般の福祉の増進に資することを目的とする」とされている。これは、商工会議所が公益法人であることを示すものであり、この目的を受けて商工会議所の事業の中には「社会一般の福祉の増進に資する事業を行うこと。」の一項が挙げられている。また、商工会議所の基本原則として、営利を目的としたり、特定者の利益を目的として事業を行ったり、あるいは、特定の政治目的に利用されてはならないことは、その公益的性格からみて当然であろう。

国際性

次に、商工会議所制度の特色というより、その活動面の特色として「国際性」を看過することはできない。法律の目的が「国民経済の健全な発展を図り兼ねて国際経済の進展に寄与する」と明示しているとおり、近年国際経済交流の進展とともに各国の商工会議所と互に連繋を保ちつつ国際貿易の振興と民間経済交流の推進に、日本商工会議所を中心として各商工会議所が組織的活動を行うことを期待しているものである。

特定商工業者制度

さらに商工会議所の特色として、商工会議所の地区内の一定規模以上の商工業者 (特定商工業者) に商工会議所設立にあたっての同意権を与えるとともに、最高意志決定機関たる議員総会を組織する議員の選挙権を与えていることをあげることができる。即ち現行法は、会員組織を建前とするのであるが、会員でない商工業者にも商工会議所の設立、運営に参加する権利を与えていることである。

法定台帳の制度

また、法定台帳の制度が挙げられる。商工会議所の義務として、会員でない者も含めて特定商工業者に関する一定の台帳(法定台帳)を作成しなければならない反面、法定台帳の作成、管理、運用に要する経費をこれらの特定商工業者に負担金として賦課することができることとされている。 即ち商工会議所は、法定台帳を運用することによって地区内の商工業の改善発達をうながし、特定商工業者は法定台帳を利用される事によって利益を得られる、いわゆる受益者負担的な考えをもって採用されたものである。

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